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何のための祭りなのか

何のための祭りなのか

何のための部活なのか?

という記事を見て、私も書きたいことがあると思い書いてみた。

表題の通りである。田舎町には春と秋にお祭りがある。
私の住む地元にも秋にお祭りがある。
このお祭りは地元の神社の例大祭に合わせて行われるお祭りであり、各家庭を回るお祭りだ。
百足獅子と言われる、獅子の胴の部分に3~5人ほど入り込み百足のように明日複数ある心中を模した獅子と、天狗が相対する形で舞う祭りだ。

獅子頭は10~20kg程度あるのでなかなか子供では振れない。なので自然と低学年から祭りに来ると天狗に回されるケースが多い。
しかしながら、獅子頭は先述の通り重いこともあり、たくさん人が必要だ。
なので、自然と小学校高学年くらいになると、体格やセンスを見て頭に回るものとそのまま天狗として出世していくものに分かれる。
高校生くらいになるド、天狗は同世代で2~3人しか残らず、ほとんどは獅子頭、もしくは太鼓や笛という囃子方に回る。

これは、我が町の獅子舞祭りの昔からの伝統的なやり方だ。
決してうまいから、いいモノを持っているから出世するのではなく、各々の特徴や事情が複雑に絡み合い、祭りという小さなサークルの中で自分の居場所が作られていく。

これは、学校や部活、会社などでも同じではないだろうか。
営業で採用されたからと言って定年になるまでずっと営業職だったという人もいるにはいるだろうが100%すべての人が最後まで営業職でいることができることなどないだろう。
むしろ少ないのではないかとさえ思えてくる。

営業で採用してみたが、この人には会計の知識が会計課の人間よりあるとわかればもしかしたら会計の部署に回ってほしいと言われるかもしれない。
工業系の学校卒で機械いじりが大好きな人がいたら、機械のメンテナンス系の部署に回されるかもしれない。これは、適材適所というやり方だと思う。

もしその時に、その人の親が、【うちの子は営業で採用されたのに、なぜ会計課に転属になったのか。納得がいかない】と、会社に押しかけてきたらどう思うだろうか。

ましてや、実際に働いている当人はどんな気持ちで明日から出社すればいいだろうか。

最近我が町だけの話なのかもしれないが、この小さな祭りのサークルで毎年のごとく出てくるトラブルである。

要は、自分の子どもが天狗から獅子頭へコンバートされた。これはパワハラの類じゃないのかと言われる。

納得がいかないと言われるのだ。

そこで、表題である。

そもそも、祭とは何のために、誰のためにやっているのか。
管理、運営をしている私たちはいったい何のためにやっているのか。ここに立ち返ってみてみたい。

祭は誰のもの?

これがまた、これをその親が言ってくる。
【祭りはあなたのためのものじゃない!】などと言われる始末だ。
わかっていますよ。そんな簡単なこと。
ただ、【あなたの子のため】でもないことを言っておきたい。
祭はその町の住民のためのもの。広くは神様のためのもの。秋祭りは豊作のお祝いで行っているものである。
決して、私のエゴでやっているものでもないし、その子に天狗をさせるためにやっているものでもない。
神様に、町民のためにやっているのだ。
そんなへたくそで投げやりな踊りを神様に見せるわけにいかないから頭に回ってもらうのだ。

そして、私は、それ以外の人のためにもあるのが祭りだと思っている

それは、【参加している子たちのためのもの】でもあると思っている。
1個人になってはいくがそれは参加しているすべての子どもにとって平等に与えられるチャンスであると思っている。

たとえば、練習に集まれば、教えてくれるおじちゃんに【こんばんは。お願いします。】と、挨拶をするチャンスがある。
終わったときに【ありがとうございました。】【さようなら】というチャンスがある。
親ではないおじさんに、【教えてください】というチャンスがある。

これは、子供の成長過程で大変重要なことであると私は思う。
自分が住む町のおじさんたちの顔を覚える場であり、認識したおじちゃんに挨拶をする場である。
挨拶をしない子どにはこちらから【こんにちは】と、話しかけ挨拶をするように仕向ける。
よく考えてみてほしい。挨拶ができない子供が今の世の中非常に多くないだろうか。
都会などになると、隣がどんな人が住んでいるかもわからない世界になっているのではないだろうか。
祭という小さなサークルは、そういった個が個以上になれないところを防ぐ効能もあると思う。

また、祭りに参加するのは親ではない。子供である。
本来は子供が自ら祭りへの参加にあこがれを抱き、自ら参加したいと意思を伝え練習に来るものであるのが本来である。
親に言われていくのは本来ではない。
自分はそうだったし、ほかの子どもたちも大半はそうだと思うが、人生で初めて自分で決断して行動に移すものこそが、祭りへの参加だと思う。
これは、義務教育でもなく、お金がかかるものでもなく、親に左右されるものでもないからだ。
そして、祭り自身はそうあるべきだと私は思っている。

それが、最近は親が祭りに参加をさせ、親が望む役に付かせ、親の顔色をうかがうことが増えたのも事実な気がする。

話を戻す。

この前獅子頭にコンバートした子のことである。

その子は、集中力がなく、おそらくであるが、大変可愛がられて育った子なのだろう。人の言うことを聞かない。
聞けないのではなく、聞かないのだ。
自分のやりたいことは言うが、自分のやれないことを教わろうとはしない。
なので、自分よりも年下の子よりも踊れない状態だった。
話を聞かない、言ってもすべてが溶けたように次のタイミングではまったく修正されないから、教えている大人も匙を投げる。

後で知ったのだが、少年野球チームに入っているらしいのだが、そこでも同じ感じだそうで、ベンチどころか玉拾いもまともにやらせてもらえない状態だそうだ。

これでは、祭礼当日、来ても着る衣装はないと宣言しなければいけなくなりそうだったので、頭へのコンバートを提案してみた。
この田舎の世界で、子どもたちのあこがれはやはり天狗なので、嫌がるかな?少しはそれで反省して練習するのかな?などと考えながら投げてみた。
そうすると、嫌どころか、まんざらでもない様子で練習を始めた。
しかも、ここがわからない。ここが踊れないと自分からできないところを教えてくれと要望してきたではないか。
おそらく親に天狗をやりなさいと言われ、自分でできないことを認識しつつも、親に敷かれたレールに乗らなければと思って我慢していたのではないだろうか。
私にはそう見えた。
実際、昨日までの顔と全く顔つきが違う。
真剣に、そして満面の笑顔で汗だくになって練習をしている。
けっか、私たちも、その子に教えないわけにはいかなくなった。

にもかかわらず。である。

その夜、その子の母親が、クレームをつけてくる事態に。

・なぜ天狗を下されるのか

・なぜ親に言わず子供に言うのか

だそうだ。
私からすると、すべてがおかしい。

なぜ天狗を下されるのか

これは、私は別に下手でもいいと思っている。
先ほど示したように祭りは町民のため、神様のためにある。
別にうまくなくてもいい。隣近所のじいさんばあさんにしたら、あそこの坊やが踊ってる。それだけでうれしいものなのだ。
だから下手でも全然問題はない。
ただ、一生懸命練習をしない下手と、練習をしても下手なのは違う。
一生懸命練習をしないのなら役割を与えるわけにはいかないから下すのだ。
また、その結果、新しく与えた役割には喜んで一生懸命練習をするのだ。
子どもを預かっている私にしてみたら、その子が喜んで一生懸命やる方を与えるに決まっているのだ。
それをなぜ天狗から下すのか。と、練習にも付き合わないその姿も見ていない親に言われるのは論外である。
それならもう連れてこないでくださいという。ここは会社でも学校でも塾でもない。お金をもらっているわけでも払っているわけでもない。好きで集まっているサークルなのだから、好きじゃないのなら来なくてもいいです。

なぜ親に言わず子に言うのか

ため息しか出ない。
私からしてみたら、なぜ親に言う必要があるのか。である。
子が望んで練習に来ているのである。
そのサークルの中でどんな理由にせよ役割を変更するときに本人に言わずに親に言うことなどあるのだろうか。
少年野球でピッチャーやりたいと言っていたけど、セカンドにしようと思うと、毎回親に言う必要があるのか。
なにを言っているのだ?としか思えなかった。

本人がやっていることなのだ。本人に言うのが当たり前だし、親に言う必要も義務もないと私は思う。
もしそれが気に食わないのなら、先ほどと同じだが、来なければいい。
その親が納得しようがしまいが私がその子と同じ年の頃からずっとこのやり方で祭りは運営されてきているのだ。
それが納得できず変えたいのであればあなたがやればよい。私はそのやり方は納得できないので参加しないだけのことになるが。

総じて

結局のところ祭りは何のためにやっているのか

最後はここに尽きる。
私は、第一は町のため。
なんやかやで、獅子舞が来るのをみんな楽しみに待っていてくれる。
【あんたの子どももうこんなにおっきくなったんだね】と言われるのが楽しみでもあり、向こうも楽しみなのである。
札から毎日べたべたしているわけではないのだから、年に1回くらい町内を回るくらいの楽しみがあってもいいだろうという想いである。

第二に子供たちの成長のためである。

子どもが憧れ自ら決断し参加するのが祭であると思っている。
そのサークルで先ほどのように自分の思った役割に付けず意図せず違うところに回される子もいよう。
また、センスがありみんなで育てようとする子も出てくる。
子は子で、そのサークルで町内のおっちゃんたちを認識する。
祭以外のシーンで町で出会ったらこんにちわと言える大人が増える。
子供の成長過程でこんなに大事なことはないと思う。
手前みそだが我が町内の子どもたちはほかの地域の子よりたくさんいろんな場所で挨拶をする。
特に祭りに参加している子たちはそれが顕著だ。
祭礼行事とはそういうものなのである。

最後に、決して親の希望をかなえるためにあるのではないことを声を大にして申し添え、記事を終えたいと思う。

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